五輪経験者・奥野竜三が語る「乗馬の魅力」(二)
奥野部長が乗馬を始めてから、ともに成長してきた馬たちとの出会いはもちろんですが、多くの人との出会いも長い競技人生を支えてくれたそうです。今回のインタビューは、怖がりだった小学生時代からオリンピック出場を果たした青年時代までの歩みを聞きました。【写真:1992年、二度目のオリンピック出場を果たした奥野部長とミルキーウェイ号(写真:本人提供)】
小学生の頃から早朝トレーニング
―乗馬を始めたきっかけは?
奥野:4歳のとき、杉谷乗馬クラブ(大阪府和泉市)で会員だった父親と一緒に乗ったのが最初。それからずっとです。実は、そのころは馬よりもクラブにあった整地用の重機を見ることが目的でした。一人で乗れるようになったのは、小学校6年生から。怖がりだったので、歳が近い子どもたちよりも時間がかかったと思います。
―小学生時代、どのくらいの頻度で練習されていましたか?
奥野:ほぼ毎日です。自宅、小学校、杉谷乗馬クラブが自転車で3分圏内にあったので、早朝からクラブでトレーニングして、小学校に行って、クラブに戻って、帰宅して、という生活をしていました。当時は野球に夢中だったので、野球の試合に選手として出場していたところを、「野球よりもお前は乗馬だ!」と父親に連れて帰られたことを覚えています。
―オリンピック出場を目標にしたのはいつから?
奥野:1976年に開かれたモントリオールオリンピックからです。障害馬術に出場された杉谷昌保先生と小畑隆一さんの8mmビデオを見て、「必ず出場する!」と強く思うようになりました。1984年に開かれたロサンゼルスオリンピックで、杉谷乗馬クラブの先輩だった陶器修一さんが先に出場したときは、嬉しい気持ちとともに「もっと努力しなければ」と思っていました。
チャンスは必ず来る
―そしてソウルオリンピック(1988年開催)で夢が叶ったのですね?
奥野:決まったときは、ほんとにね、夢のような気持ちでした。鎖骨が折れた状態で国内予選に挑むなか、恩師である杉谷昌保先生からいただいた『オリンピックに必ず行かせる』という熱い言葉が大きな支えとなり、原動力になりました。
―バルセロナオリンピック(1992年開催)にも出場されましたね!
奥野:このときから国内予選での出場権獲得という方法から、国際大会の結果で選考されるということになりました。しかし、予選出場前に馬が故障し、さすがの私も諦めかけていました。そんなとき川口宏一先生からかけていただいた『チャンスは必ず来るから』との言葉を支えに頑張った結果、新しいパートナーと出会え、オリンピック出場の権利を獲得できました。
―乗馬で結果を出すために大切なことは?
奥野:何より馬の健康管理です。日頃の馬との接し方が結果に直結します。バルセロナオリンピックでは、関係する皆様のお力添えもあって万全の状態で挑めました。結果を出すためにもう一つ大切なのは、会場の配置、動線、コースに下見で入ったときの障害物との距離など、そこで得られる情報を見逃さないこと。そうすることで、競技に集中できる状態をつくり結果につなげることができます。